■石園 悠

【タイトル】 サレクと魔法と猫(1/10)
【作者】 石園 悠

 さああ、と優しい春の風が吹いていた。
町から少し離れたこの大樹の下で、もしサレク少年が
ゆっくりと休んでいたなら、それはとても心地よい風に
感じられただろう。
しかし生憎なことに、そのささやかな風は彼を
楽しませるどころか、おののかせていた。
いや、おののいていたのは彼よりも、むしろ。
「おいで……こっちだよ。怖く、ないから」
そっとサレクは呼んだ。
「ほら、そっちは危ないから。こっちだよ。僕の方へ」
驚かせないように静かな声で囁きながら、ゆっくりと
手を伸ばす。だがまだ届かない。あと少し。
「どうか、ちょっとだけこっちにきてくれよ。そしたら
助けてあげられる」
伸ばした手と身体はもう限界だ。いま、もう少しでも
強い風が吹いたら、少年は均衡を崩して、必死で登った
高い木から転げ落ちてしまうに違いない。
特に運動が得意という訳でもないのだ。木登りも
どちらかと言えば苦手で、自分の身長の倍もありそうな
ところにたどり着けたのは初めてのこと。
でも達成感も爽快感もなかった。あるのはただ、
焦燥感だけ。
「みぃ……」
少年のまだ小さな手のひらに収まってしまいそうな
仔猫は、切なげに鳴いた。彼——か、それとも彼女なのか
——も身動きが取れず、また、近づいてくる大きな生き物
が味方であるということが判らなくて、追い詰められたと
思うように目をまん丸くしていた。
「ああ、もうちょっとなのに」
サレクは歯がみした。
(もし「あの力」を使ったら)
彼は思った。
(こんなに苦労しなくてもいいのに)
しかしふるふると首を振る。
(駄目だ、駄目駄目! 神父様と約束したんだ)
「あの力」は使ってはいけない。秘密なのだ。絶対に。
幼い彼が自らを厳しく律したとき、無情にもひときわ
強い風が吹いた。
「ああっ!?」
仔猫のいる枝先が大きく揺れる。
「危ないっ」
サレクは自分だって危険なことを忘れて大きく身を
乗り出した。
「うわあっ」
その結果として彼はついに均衡を失った。
(落ちる!)
ぐらりと身体が揺れて、サレクは思わず目を閉じた。
枝に捕まろうという努力もできないまま、少年は激しく
地面に叩きつけられ——。
「あ……あれ?」
いや、サレクが大地に激突することはなかった。
目を開けた彼は、何と、宙に浮いていた。
「え、ええっ!?」
「しいっ、落ち着いて。大丈夫。すぐに下ろしてあげる
から」
知らない声が言った。驚いてサレクは声の方を
見ようとしたものの、浮かび上がったままでは上手く
いかなかった。
「はい、一、二、三……ほら、もう大丈夫」
かけ声に合わせるように彼の位置は低くなって、
ついには何ごともなかったように地面に両足をつけた。
「危ないところだったね」
にっこりと笑って言ったのは、フードのついた
黒いローブを身につけ、黒い仔猫を肩に乗せた、
穏やかそうな青年だった。

■石園 悠

【タイトル】 サレクと魔法と猫(2/10)
【作者】 石園 悠

 その人物は、サレク少年の目には「とても大人」と
映ったが、実際にはまだ二十歳少しだった。
「大丈夫かな? 怪我はしていないと思うけれど」
「あ、うん」
こくりとサレクはうなずいた。
「あの、兄ちゃん。いまの、なに?」
「いまの、とは?」
「だって僕、浮いてた」
彼は言った。
「あんなこと、僕にはできないよ」
「そうかな?」
相手は首をかしげた。
「できるよ。ちゃんと勉強をすれば、君なら」
「ふえっ!?」
思いもかけない返事がやってきた。サレクは目を丸く
する。
「——君に不思議な力があることは判っている」
青年は言った。少年はびくっとした。
「な、ないよ、そんなの。何にも」
「隠すように言われているんだね。でも同じ力を持つ者
には判るんだ」
「お、おなじ?」
「ほら、手を出して」
言うと青年は掌を上にして自分の手を差し出し、
そこにサレクの手を乗せるよう促した。すると何だか
全身がふわりと温かくなった気がした。
「君の力は、確かに他の人が持っていないものだ」
青年は言った。
「それは特殊なもので、こうした小さな村ばかりじゃ
ない、もっと都会の大きな町へ行っても『不気味だ』と
後ろ指を指される力。君に隠すよう言った人はそうなる
ことを心配して、使ってはならないと言ったんだろう」
でも、と彼は続けた。
「それは、間違いなんだ。箱に入れてふたをしてしまっ
たところで、中身が消えてなくなる訳じゃない。忘れた
ふりをしても力は必ずそこにあるし、いつ、どんな
拍子にこぼれてしまうとも限らない」
「こ、こぼさないように気をつければいいじゃないか」
少年は反論した。
「そうだね」
青年はにっこりと微笑んだ。肯定されるとは思って
いなかったサレクは、驚いて目をぱちぱちとさせた。
「どうすればこぼさずに済むと思う?」
「どうって」
彼は困った。
「学ぶんだ」
青年は答えを提示した。
「ちゃんと学べば、力がこぼれてしまうことはない。
使い方を覚えれば、その不思議な力は怖いものでも
何でもなくなる。嫌なら使わなくたっていい。ただ
『上手に使わない』ためには使い方を覚えることが
必要」
静かに青年は言った。サレクはまるで異国の言葉を
聞いたかのように目をぱちぱちとさせていた。
「私と一緒にくるかい? 君が木に登らなくても猫を
助けることができるようになりたかったら、私は
それを手伝えるよ」
助けてもらったことが判るのだろうか、黒猫は
青年の肩で、サレクにも聞こえるくらい大きくのどを
鳴らしていた。
「そ、そんなふうに……」
少年は真剣な顔つきをした。
「僕でも、猫を馴らせる!?」
問いかけると相手は少し笑った。
「もちろんだとも、サレク。心を決めたら、私と
おいで!」
自分が名前を名乗っていなかったことにサレクは
気づいていなかったが、もし気づいていたとしても
気にしなかっただろう。
この人はそれくらい容易に遂げてしまうすごい
魔法使いだと、もうサレクには判っていたからだ。

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